ラストサムライの違和感

この前の日曜日にラストサムライを見に行ったのだけれども
結論から先に申し上げると、
日本の歴史に基づいて構成されていると聞いていたのだが、やはりというかアメリカン勘違い日本史観が思いっきり横行しており、個人的な感情により全く受けつける事が出来なかった。
この映画を見る前に「パールハーバー」「ベストキッド」「ラスト・オブ・モヒカン」等のアメリカ解釈的思いきり勘違い観だろうと疑っていたが、知人からの情報で、この作品を作成した監督は大学で日本史を専攻しており、間違った解釈は少ないだろうと少なからず安堵の気持ちで見ていたのだが、映画を見始めると間違いである事に気づかされた。
しかし、日本でもアメリカに対してリアルだと思われる作品でアメリカの方の解説を読むと、この様な銃撃戦は市内地で行われておらずファンタジックであると書かれていた事が印象に残った。
こういう事を考えると、創作者のイメージはどのように膨らませても、イメージの領域から抜け出る事は難しいのかもしれない。それが当該地の人達が見てしまうと、ファンタジーだと叫んでしまうのかもしれない。
それを見た創作者が、多少違ったイメージを再構築してしまい、さらに違ったイメージが積み重ねられてしまい、全く違う方向に行ってしまうかもしれない。そこがまた面白いと思ったりもするが。

もし此れを読んでいる方でこの映画を見ていない方がいるかもしれないので、あえて内容に触れないでおくことにする。

この映画はどちらかというとアメリカ的解釈の日本ファンタジーとして鑑賞した方が良いかもしれない。
歴史に対して忠実であれ、とか考えている人にとっては、それでとても気楽に観る事が出来るし又楽しむ事が出来る。忠実な日本史としての気持ちで鑑賞に行くと物凄く裏切られてしまうし、楽しむことが出来ない。私も後者の気持ちで鑑賞してしまったので、楽しむ事が出来なかった。
ラストの場面で鑑賞に来ている人達が涙で鼻を啜る音がアチコチで聞こえたのだが、私は後者の為に”どうして涙ぐむのだろう?”と疑問でいっぱいだった。
もしもう一度目にする事があるのなら指輪物語を見る気持ちで鑑賞するつもりである。
きっと面白いに違いない。
なので私の中でこの作品はトリビア流でいうなら、【三分咲き】といったところだろうか。

彼女と観に行って、私がつまんなそーな顔してたので、それでつらそうな気分にさせてしまい、なんだか申し訳ない気持ちが先行しまいました まる